目次
- ○人間は本来温かいものと思えば、生きやすくなる
- ○「居場所のなさ」は心の傷から生じる
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人間は本来温かいものと思えば、生きやすくなる
ところで、本書の大前提は、「人間とは本来温かいもの」という認識です。いわゆる、「性善説」と呼ばれるものでしょう。人間が本来温かいものなのか、冷たいものなのかは、証拠を持ってこいと言われても難しいテーマです。でも、あらゆる怖れから解放されて、余裕がある人は、わざわざ他人に意地悪をしたりしませんし、ことさらに「私はこんなに偉い」という自己アピールをしたりしません(そうやって自分の偉さを主張する必要がないのです。偉大な人は往々にして謙虚ですね)。そう考えると、人間は本来温かいものなのではないか、と私は思っていますし、両方の生き方をしてみて、「人間とは本来温かいもの」と信じるほうがずっと生きやすいことを実体験しています。また、私はいろいろな活動を通して、人間は温かくひたむきな存在なのだな、ということを体感してきています。これは健康であっても病気であっても同じです。病気の人は怠けているように見えるかもしれませんが、病気というハンディを抱えながら、誰よりも頑張っている人なのだと思います。そういう見方をしていると、いろいろと心温まる体験をすることができますし、「怒っている人は困っている人」などという視点の転換ができて楽です。そもそも、私たちはどんなときに幸せを感じるでしょうか。自分のありのままを人から受け入れてもらえる。自分を信頼してもらえる。悲しいときは、泣いてもいいんだよと暗に認めてもらえる。自分という個人の存在や生き方を尊重して(リスペクトして)もらえる。そんなときに感じる、あの何とも言えない温かい感覚は、何ものにも代え難い、人生で得られる最高のものの一つだと私は思っています。そしてそれこそが、私たちの本質が温かいものだと示しているのだと思います。また、そのように信じたほうが「生きやすい」のは確かです。本当か嘘かはわからないけれども、私にはそのほうが生きやすいし、人の役に立ちやすいので、人間は本来温かいものだ、と信じて生きることにしています。確かに、人はそれぞれが違う存在です。生まれ持ったものも、今まで経験してきたことも異なっています。でも、私が患者さんを診療したり、ボランティア活動のAHに参加したりすると、人は、実は決してそれほど違わない存在だと思うのです。表面的な「いろいろ」は、むしろ人間の多様性を示すもので、「人にはそれぞれの事情がある」と教えてくれます。同時に、どんな人も、できるだけのことをして頑張っているのが人間という存在なのです。一見とても不適切なことをしている人でも、それがその人なりの「精一杯」なのです。小さいころに虐待された人は、警戒心を持って、傷つけられないように生きていくのが精一杯でしょうし、あるいは、「怖い!」という感情を刺激されてしまって相手に対して攻撃的になることもあります。これも精一杯の行動です。どちらの例にしろ、それぞれが一生懸命生きているのだということを認めれば十分で、「浮いている」などという見方をする必要はないと思うのです。自分はいろいろ不運なことを体験したので、一見「浮いている」行動をとっているかもしれない。でも、一生懸命生きているのは、誰とも変わらないのです。それでも、人の多様性を受け入れられない集団はあります。「形のつながり」を求め、そこからはずれる人を「浮いている」などと疎外するのです。運悪くそんな場に居合わせてしまったら、「人は多様で温かい存在だということを知らない、気の毒な人たちなんだな」と思うことができれば、自分の心の平和は保たれますし、「居場所のなさ」を感じることもないでしょう。自分はただありのまま、そこにいればよいのです。ところが、「浮きたくない」という一心で「形のつながり」にとらわれてしまうと、一気に「居場所のなさ」を感じることになると思います。「居場所のなさ」を感じるかどうかは自分次第なのです。自分を「浮かせる」集団は、人間の温かさを知らない。 -
「居場所のなさ」は心の傷から生じる
先ほど、性善説と性悪説とどちらを選ぶか、ということに触れましたが、少し精神医学的な根拠を示してみましょう。性悪説をとる人、つまり「人間は本来エゴイスティックな存在で、隙あらば他人の足を引っ張ろうとしている」というふうに考える人は、過去にそのような体験をしたことがあるのだと思います。それは虐待かもしれないし、いじめかもしれません。世間体ばかりを気にして、子どものことなど考えてくれなかった親のもとで育ったのかもしれません。とにかく、何らかの形で「誰かの心の傷」に傷つけられたのだと思います。心に傷があれば、もちろん私たちは警戒します。他人への信頼、世界への信頼を失うでしょう。そんなときには、実は自分に対する信頼も失っているものです。「これは周りだけの問題であり、自分の問題ではない」と100パーセント思えることは案外ないのです。人からひどいことをされるということは、自分に何かの落ち度があったからだと、程度の差こそあれ思っているはずです。あるいは、人から傷つけられた自分は、結果として「周りと比べて、どこかおかしい」人間になってしまったと思っている方もいるでしょう。ですから「居場所がない」感が出てくるのです。相手がどんなことを言おうと「私は心の平和だけを大切にして生きていこう」と決めていれば、実は傷つくこともないのです。少し説明しましょう。人を傷つけるような人は、かなり不幸な人です。「どうして私の人生は、こんなになってしまったのだろう」「どうして自分は能力があるのに認めてもらえないのだろう」「どうして私だけが、理不尽に苦労しなければならないのだろう」などと、人生がうまくいっていないので、八つ当たりをするのです。そういう人たちはたいてい不機嫌です。イライラしていて、責任を他人に押しつけてきたりします。本当に穏やかで幸せな人は、他人のありのままを認めることができますし、他人を傷つけるようなことを言わないものなのです。今、世界中で、疎外された人たちが、それ以外の人々の安全を脅かしています。国内で見ても、無差別通り魔殺人などは疎外された末の悲しい出来事だと思います。また、世界規模で見れば、宗教的な問題もあり疎外されてきた人たちが、暴力的な、非人間的な行いを繰り返しています。これも、もっと早くに気づいて、「自分とは違う」人を疎外しない努力をしていれば、その人の尊厳や大切な人を奪わなければ、防げたのではないかと思います。攻撃してくる人は、不幸な人。
相手の「心の傷」に焦点を当てれば、振り回されなくなる。
「自分の居場所がない」と感じたときに読む本
第2章より
職場では同僚たちと、家庭では配偶者や子どもたちに溶け込めず、「疎外感」を覚えたり、「ひとりぼっち」でいることに対する「イライラ」「恥ずかしさ」「落ち込み」を感じている人が増えています。 また、「居場所がない」というと〝孤独〟を連想しがちですが、家族や恋人、親しい友人たちと一緒にいるときにも、「あるべき自分」を演じてしまうことによって、他者との「距離感」や「ありのままの自分を受け入れらない」と感じている人も多くいます。 本書は、そういった身近な人たちとの「居心地の悪さ」の原因を明らかにし、他者と自分との向き合い方のヒントを解説する1冊です。