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日本仏教の盛衰を物語るパパアロア本願寺の魅力
パパアロア本願寺は、19号線と併走して、海側を通るオールド・ママラホア・ハイウェイ沿いにあります。本堂は、阿弥陀仏を中心に親鸞聖人・蓮如上人を右左に配する本願寺形式で、内陣の上に花をかたどった金色の欄間があり、その下部に御簾が巻き上げられています。この記事ではパパアロア本願寺の歴史や、事件、特有の外観などをご紹介します。
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目次
- 日本仏教の盛衰を物語るパパアロア本願寺の魅力
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【宗派】浄土真宗本願寺派
【住所】35-2026 Old Mamalahoa Hwy. Papaaloa, HI 96780
(DMS)19° 58’ 34.4” N 155° 13’ 07.3” W
【開教使(兼務)】川越真慈先生
【設立】1902年
【現在の建物】1902年建設、1915年大規模な修理、1945~1951年大改造
【メンバー数】30人弱
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パパアロアを、土地の人は「パパロア」と発音するようだが、ここではパパアロアとする。パパアロア本願寺は、19号線と併走して、海側を通るオールド・ママラホア・ハイウェイ沿いにある。ヒロから行く場合は、19号線を北上してマイルマーカー24を右折し直進すると右にある。あるいは、マイルマーカー24「パパアロア右」と標識の出た交差点を過ぎたところで右折し、道を下る。パパアロア・カントリーストア・アンド・カフェを右折して小さな橋を渡れば左にある。19号線とはほんの数十メートルしか離れていないのに静か。いつ行っても門前に数台の車が停まっているのに人の姿はなく、ひっそりとしている。寺の前に停車しているのは、パパアロア・カントリーストア・アンド・カフェ(郵便局も入っている)に来る人の駐車場として貸しているからだ。寺に隣接して、崩壊寸前の倉庫跡がある。これは、かつて移民労働者たちが働いた元ラウパホエホエ・シュガー・カンパニーの施設の一部である。プランテーション全盛期の活動的な姿はもうない。衰退と年月の経過を具現化するようなこの廃屋の姿が、ハワイ島における日本仏教の盛衰に重なると言ったら過言だろうか。1902年に落らっけい慶法要したパパアロア本願寺は、ハマクア・コースト北部ではハマクア浄土院、ラウパホエホエ浄土院に次ぐ最も初期の寺院であり、<br ?-->本願寺としては最初の寺院であった。それでも官約移民が始まってから17年後となる。第2次大戦中の1941年から1945年は開教使が米軍によって抑留されたため、信徒が庫裏に居住して寺院の世話をした。現在の開教使は、すらりとした長身の川越真慈先生。響きのよい声の持ち主なので、読経はさぞかしと思う。パパイコウ本願寺を主務に、こことホノム、ホノヒナの本願寺を兼務している。本堂は、阿弥陀仏を中心に親鸞聖人・蓮如上人を右左に配する本願寺形式。並んでいる長椅子は、つめれば80人は座れるだろう。内陣の上に花をかたどった金色の欄間があり、その下部に御簾が巻き上げられている。宮殿の左右の壁がベニヤ板風なので質素だが、輝く宮殿の存在感は強い。敷地が斜面になっているので、それを利用して本堂下がソーシャル・ホールになっている。本堂の左につながるのはカンファレンス・ルーム(会議室)で、その1階がキッチンになっている。この建物は、1980年代前半まではさらに上階に開教使の庫裏がある3階建てだった。ソーシャル・ホールとキッチンの間は素通しになっていて、2階のカンファレンス・ルームの下をくぐる形で裏庭に通じる。そこは芝生広場の駐車場になっている。ソーシャル・ホールのステージがおもしろい。舞台奥の壁を布がおおっているのだが、その布に絵が描かれている。農村歌舞伎の背景画のような、ふすまを開放しきった5部屋が奥へ奥へと続く絵である。遠近法を用いているので、小さなステージに奥行きが演出されている。ホールの壁に、ダニエル・イノウエのポスターが数枚貼られている。赤白黒の3色だけのデザイン化されたもので、円のなかに「ドン」「イノウエ」の文字が印象的だ。2015年、この寺の鐘にまつわる事件が起きている。喚鐘が盗まれたのだ。大正8(1919)年製の歴史ある銅製の鐘であった。なくなっていることに最初に気づいたのは、川越先生だった。すぐにメンバーたちにたずねたが、鐘が消えていることに誰も気づいていなかったそうだ。鐘はその後、パパイコウとホノムの間、ペペエケオの道路脇で無事な姿で発見された。草むらに転がった状態で捨てられていたという。以来、この喚鐘無事戻った喚鐘ハマクア・コースト96は鎖と鍵で守られている。本堂正面入口の左右に石碑がある。右側の黒い石碑はカペフ、パパアロア、オオカラで埋葬された先人たちの合同慰霊碑である。これに関しては、『官約日本移民布哇渡航50年記念誌』(日布時事社1935年)に掲載された第1・2回の官約移民(1885年)で50年後もハワイに現存している62名の略伝と回想が参考になる。そこには、寺がなかった時代の葬儀は、仲間が経を唱える程度の簡素なもので、墓標は時間とともに消え去り土と化していったという記述があるのだ。つまり、そんな先人たちを慰霊する碑が、この合同慰霊碑である。島内各地の寺は、上記のような状況のなかで建てられてきた。パパアロア本願寺も同様で、移民たちの悲願の設立であった。ところが現在、ほかの寺との合併が模索されている。寺に来る人の数を考えた上で、決断を迫られているそうだ。2020年のボン・ダンスがコロナ禍の影響で中止になれば、最後のボン・ダンスが行なわれないまま、終了となる可能性が高い。
アロハの島で寺めぐり マウカマカイの細道 ハワイ島編
本書は単なるガイドブックを超えた、読者に新鮮な満足を贈る知的ガイドブックである。家の中でひと味違うハワイ旅を楽しみたい人にも、コロナ後にハワイへ行こうと考える人にも、大いに役立つ本になるだろう。ハワイ島には30を超す仏教寺院が現存する。これは、明治時代初期から始まった移民が関係している。著者は8年にわたって島内の寺院と日系人を訪れ、聞き取りと調査を重ねた。浮かび上がったのは、日系移民の苦難と向上心、彼らが築いた寺院の役割と歴史、日系アメリカンの意識と寺院が抱える今日的課題等であった。